こんにちは。
国語のテキストに懐かしい文章が出てきました。
詳しいことは書きませんが,年に1度,必ず読んでいた文章です。自分が提供しているものがひどく見劣りするように感じられ,忸怩たる思いで読んでいた文章でもあります。
そんなことはさておいて,この文章は長田弘さんの「すべてきみに宛てた手紙」が出典です。
テキストに載っていたのは,日本人の語彙力の低下について書かれた部分で,
「秋の雨についてだけ言っても,「秋雨」「長雨」「愁雨」あるいは「霧雨」「小糠雨」「霖雨」「宿雨」など,日本語はいろいろな言い方をしてきました。けれども,どうでしょうか。今は雨を言いあらわすのに,どれくらいのボキャブラリーを,わたしたちは使っているでしょうか。」
などと,雨について例が挙げられています。
「愁雨」というのは誤植ではなかろうかと,ある方がおっしゃっていました。(というよりも毎年聞いていました)
確かに,辞書には出ておらず,代わりに「驟雨」という言葉が載っています。
しかし,あえて誤植のままにするというのも,日本語について考えるきっかけとなるかもしれませんし,文章に味も出てきます。
「日本語の漢字はわたしたちのなかに連想する力をふんだんに育ててきたけれども,カタカナのことばはことばの地下茎がもともと断ち切られてしまうため,なかなかそうはゆかず,ことばによる連想の力,イメージをゆたかにつらねてゆく力を,どうしても殺いでしまいやすいのです。」
とも書かれていますが,これなどは,なるほどなと感心させられました。
最近,カタカナ語がとみに多くなっています。コロナ関連の言葉にしても,「クラスター」「ロックダウン」などと,「イメージ」しにくいことばがさかんに用いられています。言語生活が豊かとは言えないでしょうし,事態を説明することばとしても稚拙ではないかと感じます。
しかし,この文章をはじめて読んだとしたら,ここまで深く考えることはしなかったかもしれません。
人と人とが出会うように,文章との「出会い」もあるでしょう。
今回は運よく「再会」できたために,いろいろと考えるきっかけにもなりました。学生のみなさんには,名分との出会いも大切にしていただきたいなと思っています。
では。