志学ゼミナール塾長のブログ

札幌市,中島公園近くの学習塾「志学ゼミナール」のブログです。

山月記

こんにちは。

 

先日,ふとした衝動にかられて『山月記』(中島敦著)を読みました。

人間が虎と化していく様子がみごとに表現されていますし,「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が主人公を虎に変えてしまう逸話も考えさせられます。

高校の国語の教科書に出ている定番の小説かと思いますが,やはり国語の授業では,こうした文学にこそ触れるべきでしょうね。高校で履修する「論理国語」というものがどのような内容であるのか,私は詳しくはわかりませんが,『山月記』を読むほうが子どもたちの人生が豊かになるとは思っています。

さて,小説の中で,虎に出会った袁さん(「さん」の漢字が出せませんが,姓が袁で名がさんです)が,虎が人語で話す声を聞いて「その声は、我が友、李徴子ではないか」と気がつく場面があります。

この場面で,相手のことを李徴子と呼ぶのがおかしいのではないかと,ちょっとだけまじめに考えています。

 

おそらく

姓は李

名は徴

「子」というのは中国語で先生という意味でしょう。

 

日本でも,かつて諱は他人には知らせず,通称で互いを呼び合っていた時代があります。明治になって改められました。西郷隆盛であれば,姓が西郷,名(諱)が隆盛,通称が吉之助で,明治になるまで吉之助と呼ばれていて,諱は知られていなかったでしょう。

これは,アジア各地に見られる文化で,東南アジアなどには,いまだに人々が本名を隠して通称で生活している地域が少なくないそうです。

 

中国にも字(あざな)という通称があり,本名は隠して生活していたはずです。

三国志で有名な劉備であれば,

姓は劉

名は備

字は玄徳

ですので,劉玄徳と呼ばれていたはずです。したがって,「劉備玄徳」という表記はおかしいということになります。

 

小説に戻りますと,李徴にも字があったはすですから,「李○○(○○は字)」と呼ばれるべきだと思うのです。

 

日本人にもわかりやすくお話をアレンジしているわけですから,小説の中では「李徴子」と呼ばれるのは当然のことでしょうし,文学的価値を損なうものではないことは確かです。

しかし,字という中国の文化については知っておいてしかるべきでしょうね。

 

ちなみに,高校時代の古典の定期テストで「孔子の本名を答よ。」という問いが出題され,私は「孔丘仲尼」と解答して×になりました。単に「孔丘」とするか,「孔仲尼」と答えるか,「孔丘(字は仲尼)」などと書くべきでしょう。

 

では。