志学ゼミナール塾長のブログ

札幌市,中島公園近くの学習塾「志学ゼミナール」のブログです。

走馬灯

こんにちは。

昨日,「死」を意識することについて書きましたが,このままAIなどの技術が発展しつづけると,不老不死が実現するかもしれませんね。
体のどこかが悪くなれば,再生医療を活用するなり,人工的なものを体に取り付けるなりして生きることができるようになるかもしれません。
能についても,脳全体をスキャンして,記憶や思考回路,嗜好などすべてをコンピュータに移植できるようになるかもしれません。
そうなると,コンピュータの脳と機械や再生医療で維持された体をもち,永遠に生きることが可能になるかもしれません。「銀河鉄道999」みたいな話ですが,いくつかの本ではこのようなことが論じられています。近い将来,実現してもおかしくはないでしょう。
ただ,死なないとなると,文化や芸術,学問は発展しないかもしれませんね。美しいものを愛で,学問を楽しみ,何かの道を究めようという心は,「生」が限られていることをエネルギーの源としているように思うからです。
仮に不老不死になれるとしても,私はそれを望まないことでしょう。

「死」というと,一度だけ,本当に死ぬかと思ったことがあります。
学生時代,高いところで作業をするアルバイトをしていました。マンションやビルの屋上などに貯水タンクがあり,それを掃除する仕事です。もっとも,今は屋上に貯水槽がある建物自体が減りましたが。

はしごを上って屋上まで行くのですが,はしごを上ること自体はそんなに危険ではないので,命綱などはありません。マンションなんかの上のほうを見上げると,壁面にはしごがついていることがあります。それを上っていくのです。ただ,落ちると高確率であの世行きでしょう。

ある日,その日は雨が降っていたのですが,はしごを上っているときに手を滑らせました。
このとき,あっ,自分は死ぬなあ,と意識したのです。
小説なんかで描かれる場面のように,ほんの一瞬なのですが,ものすごく時間がゆっくりと流れ,自分はすごく冷静で,目を閉じた真っ暗な世界の中で,1つ1つ順番にゆっくりとさまざまな思いが浮かんできました。
よく,人生が走馬灯のように,と描写されていますが,まさにそのような感じでした。

最初に思ったのが,「あっ,死ぬなあ。」
次には,「思えば短い人生だったなあ。20年かあ。」
「死んでしまって,両親には申し訳がないなあ。」
と,現実にはほんの一瞬なのですが,ゆったりとした時間が流れていました。
そして,しようがないなと死を覚悟した瞬間に思ったのが,「最後にビールが飲みたいなあ。」でした。

そこで,カンと乾いたはしごの音がして我に返ると,滑らせた右手はもともとつかんでいたはしごから2段下の棒をつかんでいて,自分でも何がどうなったのかはよくわからないのですが,助かったのでした。

死ぬ瞬間になると,その人の本音や本質が出てくるものだと思うのですが,ビールを飲みたいとは,なんとも若いときの自分らしいなと思っています。今だとどんなことを考えるのでしょうかね?

では。