こんにちは。
一昨日,「言語生活を豊かに」という記事を書きました。
その逆の内容です。貧困な言葉について考えてみたいと思います。
たとえば,若者たちの間で,いい意味でも「やばい」という言葉を使う方が多いようです。この「やばい」ですが,なんでもかんでも「やばい」と表現すれば事足りてしまいます。
今日の授業は「やばかった」
この餃子は「やばい」
〇〇さんは「やばい」よ
めっちゃ「やばい」ゲームだ
…
このように,この一語で足りてしまうのです。微妙な言い回しの違いなどを使い分ける必要もないですし,感情の機微をそれに合わせた言葉で表現する必要もありません。これだと,言語生活がどんどんと貧困になっていくように思います。
ほかには,「エモい」,「ウェイ」,「ワンチャン」,…といった若者言葉もありますが,これだけで済んでしまうという点では,どれも似たような性質を帯びていると思います。
若者言葉に限らず,ほとんど同じ言葉でしか答えられない子どもたちも少なくありません。とくに,勉強が苦手な子に多いでしょうか。
何を聞いても「ムリ」としか言わないとか,「ツカレター」とばかり言うとか,負の感情を表すときは「ムカツク」としか言えないとか,これらも貧困な言語生活の一例ですね。
昔から流行語はありました。しかし,一語ですべて事足りてしまうような性質のものは,ほとんどなかったのではないかと思います。
大正時代の流行語だと,モダンガールを「モガ」,モダンボーイを「モボ」と呼んでいたとか,1円(当時の大卒初任給が50円と言われています)のものが大流行し,1円の本は「円本」,1円のタクシーは「円タク」と呼ばれたとか,万能の言葉とはちがいますね。
ほかに,無料のことを「ロハ」というのもこの時代に生まれた言葉だと思います。無料は「ただ」です。「ただ」を漢字で「只」と書き,漢字の上下を分解して「ロハ」というようになったそうです。これなどは,実に洒落た感じがしますね。
それこそ,言語生活の豊かさを感じます。
小学生に作文を書かせてみると,自分の感情を表す言葉がすべて「すごい」という単語だけで表現されているものが少なくありません。
もう少し,詳しく,具体的に,わかりやすく気持ちを書いてごらん,などと指示して書き直しをさせることが多いです。それで,小学生たちは,知っている言葉の中から一生懸命に選んで違う単語で気持ちを表現してくれます。こうした地道な作業,言葉を「使用」するほうの努力と,たくさんの活字を読み,言葉を「習得」するほうの努力が,現代の子どもたちには不足しがちなのかもしれません。
言語生活の貧困さが,国語のみならず,さまざまな学習,ちょっと大げさですが子どもたちの社会生活にまでも,悪影響を及ぼすこともあるようだと最近では感じております。その意味では,読書など活字文化は想像以上に大切なものでしょう。
では。