こんにちは。
直接に見えていない部分であっても,生徒のようすがなんとなくわかるものです。見ていなくても「見えている」のです。
宿題のチェックをするとして,中身を見なくてもしっかりやったかどうかはなんとなくわかります。
授業中もそうですね。バレてはいないだろうと,授業をさぼっている生徒がいても,それもよくわかります。他の勉強をしていたり,ときにはマンガを読んでいたり,上の空であったり,そういう生徒が少なからずいます。
注意されないのは,それぞれの状況によるかと思いますが,先生の考えとして注意しないほうが「いい」と判断したからでしょう。
「いい」の部分ですが,その生徒本人とって「いい」というよりも,クラス全体として「いい」と判断することが多いように思います。誰かを叱ると授業の雰囲気が悪くなりますからね。
よく生徒のことが見える,という点で,高校時代に神様のような先生に教わったことがあります。
高校3年のときの英語の先生で,「ナリー」というあだ名でした。前年に定年退職されて,非常勤として高3のクラスだけを担当されていました。力のある先生でしたので,定年が近くなってからは高3しか受け持っていなかったように思います。
当然,私たちを受け持つのも初めてだったのですが,授業を受けてみると,驚いたことに,ナリー先生は生徒の実力を的確に把握されていました。予習をしてきた演習問題の解答・解説をする形式の授業だったのですが,問題の難易度にあわせて,それがギリギリ解けるかどうかくらいの学力の生徒にあてていきます。
授業も大変にわかりやすく,力がつきました。
簡単な問題は苦手な生徒に,難しい問題は得意な生徒にあてていきます。それで,最初にあてられた生徒は答えられないことが多く,次はほんの少しだけ英語力が上だろうなという生徒にあてていきます。うまく表現できないのですが,問題の難易度とあてる生徒のマッチングが絶妙なのです。
私はというと,ナリー先生からはまったくあてられませんでした。
高校時代は猛勉強をしていて成績がよかったのと,しっかりと丁寧に予習をしており,わからなかった問題もきちんと調べて正答を準備して授業に臨んでいたからでしょう。
ある日,翌日の英語の予習をしていて,調べてもどうしても答えのわからない問題が1つだけありました。
空け方4時くらいまで丁寧に辞書や参考書を調べて,それでもわかりませんでした。
1年間,授業を受けていて,予習してわからなかったのはこの1題だけです。
果たして翌日の授業では,見事にその問題であてられたのは私でした。
1年間,授業を受けていて,あてられたのはその1回きりです。
こうした優秀な先生方を目標に,私人も研鑽に励んているわけですが,塾の先生になって10年が経ち,今ではなんとなくナリー先生の見えていた景色がわかるようになってきました。はじめて担当する生徒たちであっても,ものすごくよく「見えていた」わけですね。
ナリー先生がご健在であるならば,今では80歳を超えているはずです。
大学合格の報告に行ったのが高校を訪れた最後です。そのときにはナリー先生にはお会いできませんでした。もしもまたお会いする機会があったなら,きちんとお礼を伝えたいと思っています。
2月になってカレンダーをめくり,ふと思い出したことを書いてみました。
では。