こんにちは。
先日の橋の話ですが,どうして錯角が起きるのかと,デザインを専門にされている方が突きつめて考えてくださいました。
お仕事の性質,ご自身の興味から,錯視が起きた場合には,その原因がわからないと気になって仕方がないそうです。
さて,このデザイナーさんのお言葉ですが,勉強についても思い当たることがあります。
以前にこんな記事を書きました。
過去記事「ナリー先生の思い出」
https://shigakuseminar.hatenablog.jp/entry/68982105
大変に力のある先生がいらっしゃり,的確に生徒の実力を把握していらして,ギリギリ問題が解けなさそうな生徒さんにあてていくというような思い出話です。
私は1年間授業を受けていて,ただの一度きりしかあてられませんでした。しかも,1年間で唯一わからなかった問題だけ,どんぴしゃりであてられたというお話です。
裏を返すと,1年間まじめに予習をしていて,ほぼすべての問題の正答を用意していたし,1題を除いてはすべて正解していたということです。
その1題にしても,明け方まで何度も辞書や参考書に向き合って,必死に正答を導こうとしていました。
たった1題のために,何時間もかけたということです。
果たして,これは時間の無駄なのでしょうか?
もちろん答はNoです。無駄なはずはありませんね。むしろ,最難関を目指すのであれば,絶対に身につけてほしい勉強に向き合う態度です。
調べているときに,正解にはたどり着けなかったものの,実にさまざまなことを調べて理解しているはずです。
わからない問題との向き合い方,出会ったときの考え方も身につくでしょう。
後者については,数学では必須の力だと思います。国立二次試験の数学は,難問ばかりがそろっていて,必死に考えて手がかりをつかまなければ得点になりません。数学でも解けない問題に何時間も向き合ってほしいです。
ほかに,調べて正解がわかった問いであっても,たくさん調べたことで,より深く正確に理解できているはずです。
こうした積み重ねが,学力,とくに基礎力を固めるのに大きく寄与することでしょう。
橋の話に戻りますが,私の場合,勉強していてわからないものがあると,気持ち悪くて気になって仕方がありません。完全に納得できるまで調べようとします。
また,当時は優等生としてのプライドみたいなものもありました。必ず完璧に予習をしていくぞと。
わかるまで調べ切るか,誰かに聞けばいいやとあきらめるか,そうした違いは勉強に向きあう姿勢の違いそのものですし,勉強への向き不向きにも通じるのかもしれません。
とくに大学での学問には不可欠な態度かもしれません。
では。