こんにちは。
今朝の北海道新聞の記事です。
6月に緊急事態宣言が解除されて学校が再開した場合でも,札幌市では,まずは分散登校からはじめ,通常通りに戻るのは少し先のことになると,市長が述べていたそうです。
また,学習時間を確保する目的でしょうが,運動会や学習発表会(昔の学芸会)も実施できないのではないかと述べたそうです。
再開したとしても,いろいろと大変そうです。
がんばっていきましょう。
札幌市の休校中の学習課題で,中学2年生は『枕草子』の「第一段」を勉強することになっています。
私も中学のときに学習しました。「春はあけぼの」ではじまる有名な随筆です。
中学校の国語の先生は,『桃尻語訳 枕草子』を紹介してくださり,清少納言が「感動」した様子をわかりやすく楽しく教えてくださいました。
『枕草子』にしても,学校で学ぶたくさんの詩歌にしても,子どもころにはその素晴らしさがあまりよくわかりませんでした。他の人が「いい」と言っているから,これはこういうものなのだろうと無理矢理に納得していましたし,今もわかるかといえば必ずしもそうではありません。
だいたい,こんなにも些細なことに「感動」して,作者はおかしいのではないかと,そんなことすら思っていました。
『枕草子』であれば,「カラスが寝床に帰るのに飛んでいるところ」や「秋の風の音」,「冬の寒い日に炭をもって廊下を歩くこと」など,こんなことにすら風情を感じています。子ども心には到底理解のできない感性でした。
最近,歳をとったせいか,なんとなく清少納言の気持ちがわかるようになってきました。
日々,身の周りの小さなことを観察し,自然の変化や美しさを感じて,「感動」を覚えていたのでしょう。そうすることで,毎日の生活が楽しく豊かに感じられたことでしょう。
ましてや時代は平安期です。テレビもラジオもインターネットもゲームもありません。ものすごく退屈だったようにも思います。「仕事」も現代人ほど忙しくはなかったでしょう。のんびりと過ごし,時間を持て余していた可能性が高いと思います。
それで,みんなが恋をしたから「和歌」が発展してすばらしいたくさんの作品が今に残されてもいます。
一人ひとりが感性を鋭くして,小さな「気づき」を発信していくような文化が育っていたのでしょう。
そのような当時の日本にあって,とくに優れた感性で,生き生きと自分の心情を伝えっていったのが清少納言なのでしょう。
紫式部とケンカをしているギスギスした印象のある人物ですが,実際には大らかな心と鋭い感性で周りを観察し,小さな「感動」をいつも見つけているような穏やかで豊かな人物だったように思います。
学習課題では,『枕草子』を読んで「共感できたこと」や「印象に残っていること」をまとめるよう指示されています。
まずはご自分で身の周りを観察してみて,「感動」を見つけてみるといいでしょう。少しは清少納言の気持ちがわかってくると思います。
机上の勉強よりも,そうしたことのほうが人生にとっては大いにプラスに働くようにも思います。
では。